理転初学者の数学参考書

俺たちは、シャレオツカフェの近くにある、街一番の大きな本屋に向かった。

うむ、可愛い女の子を連れて街中を闊歩するのも悪くない。

市内で一番大きな本屋の5階に参考書コーナーがある。
誰もいないエレベーターに乗り、やけに満足気に5階へと舞い降りた俺だった。

が。



​───小百合。

参考書コーナーの一角に、見間違いようのない、その空間と見事に調和した一人の女がいることを俺は見逃さなかった。

みずきを連れた状態でアイツには会いたくない。
なんと冷やかされることか…

困難とは得てして、それが起きて欲しくない時に起こるものである。

「みずきちゃん、ちょっとあっちに行こう」
「ほえ?はーい」

今のうちに小百合はよ帰れ、お前はよ帰れ。
その願いも虚しく…。

「あ!あれ小百合さんじゃないですかー!」

小百合さーん!

そう呼びかける彼女を、誰が止めることができよう。
少なくとも俺にはできなかった。

「あら、豚が真珠を引き連れて、一体何事かしら?」

ほら、こうなる。

「ぴっくりしただろう。豚(pig)だけに」
「つまんないわ」
「……」
「うんとかすんとかブヒとか言いなさい。話せない豚はただの豚よ」
「…ブヒ…。っておい最後のおい、お前最後の」

俺は合宿の時の彼女の笑顔をもう一度見てみたかっただけなのに…。

「今日は相田さんに勉強相談に乗ってもらってたんです。今は参考書選びに付き合ってもらってて…」
「参考書選び?どの口が人に参考書を選んであげようと言うのかしら。随分とまあ偉くなったものね」
「違う。俺はみずきちゃんの選ぶ参考書をただ見極めに来ただけだ。俺だってどの参考書が分かりやすいかくらいなら判別することはできる」
「そうね。参考書の知識だけは成績に似合わず一丁前だものね」
「お前も暇なんだろ?付き合えよ」
「私は文系よ。あなたたち理系のことなんて分からないわ」
「文系でも付き合えよ」
「論理が無茶苦茶だわ。国語の勉強をちゃんとしているのかしら」
「……くっ……!」

所構わず言い合いになるのが小百合と俺だった。
だが、同時にこのやり取りが心地よくも感じていた。

「でもまあみずきのためなら、付き合ってあげるわ。勘違いしないでよね。みずきのためよ。あなた、みずきの人生がかかっているのだから、適当な参考書を選んだりしたら承知しないわよ」

小百合の言うことも一理ある。
これから一年間付き合って行くことになる参考書だ。ちゃんと選んであげよう。

「相田さん、小百合さんからお墨付き貰えましたよ。よかったですね」
「君はそれどういう立場からの発言なんだ…」

ふふっ。やっと仲間に入れました。
俺と小百合のやり取りを横目で見ていたみずきがそう呟くのは実にかわいらしかった。

「じゃあまず数学から行こうか」
「はい!」

数学のコーナーに立ち寄る。

「数3初学者の今の定番といったらやっぱりこれかな」

そう言って一つの本を手に取る

「『やさしい高校数学』、ですか?」
「うん、そう。これは講義調になっていて頭に入りやすいし、イラストも多くて堅くない感じが取っつきやすいんじゃないかな?ちょっと分厚いけど」
「確かになんか分かりやすい気がします!」

俺は別の参考書を手に取った。

「これも定番っちゃ定番だね」
「マセマの『初めから始める数学Ⅲ』ですか?」
「うん。でも見てみれば分かるけど、ちょっと特有のレイアウトとかフォントでしょ。これは俺も昔使ってたんだ」
「相田さんも使ってたんですか…」
「今使ってる人はあんまり見ないけどね」

「あとはこんなのもあるよ。『長岡の教科書』『YouTubeで学べる長岡先生の集中講義』とかね。」
「この長岡さんって人、有名なんですか?」
「そうだね。受験数学界隈ではね。この人は数学の『総合的研究』の著者でもあるし、弟の長岡恭史っていう人は東進で数学の有名講師だね」
「へえー!なんか面白いですね!」
「だよね。今は『受験サプリ』の映像授業なんかもあるし、YouTubeで無料で解説動画が見れたりするし、初学者にとってはいい世の中だよね」
「う~ん…迷いますね…」

すると、それまで静観していた小百合が口を出してきた。

「動画は分かりやすいと思うけど、見返すとき時間がかからない?まずは本で勉強してみて、分からない所があれば動画やらを見てみたらどう?」
「なるほど!さすが小百合さんです!」

おい小百合、してやったり、みたいな顔でこっちを見るな。
まだ勝負は始まったばかりだ。

「じゃあどれにしようか?」
「う~ん…『長岡の教科書』はちょっと堅すぎる気がしますし、『マセマの初めから始める』と『やさしい高校数学』で迷いますけど…。イラストがかわいいので『やさしい高校数学』にします!」
「かわいいからか…。確かに見て楽しいほうがいいもんね。じゃあそれにしよう」

ここで俺は、提案すべきことがあったことを思い出した。

「あとね。数3は計算量が膨大になる事も少なくないからこの本で計算練習をしておくのがおすすめだよ」
「『合格る計算数学Ⅲ』ですか?」
「そう。解答の発想は合ってたのに計算ミスしちゃもったいないでしょ?」
「確かにそうですね。じゃあそれも一緒にやります!」

どうだ、見てみろ。
悔しそうな表情をしている小百合がこちらを睨め付ける。
クハハハ。いいざまだ。

「じゃあ次は化学を見ようか」
「はい!」

そう言って俺は、妙に急いで進もうとする両足を抑えつつ、ゆっくりと前に歩を踏み出した。