理転はいつも突然に

それはゴールデンウィークに行われた合宿が終わって間もない頃のことだった。

「相田さん、ちょっと相談があるんですけど…」

合宿によって、一種の戦友的意識が芽生えたみずきから真面目な顔でそう言われた。


「ん?俺に…?…いいけど自習が終わってからでいいかな?」
「はい。」
「夜11時を超えちゃうけどいいの?」
「はい。お願いします」

一度、何でも相談していいよ、とは言ったが、まさか俺なんかに本当に相談があるとは…。
まあ年端もいかぬ若い少女のことだ、色々悩みがあるに違いない。
俺でいいなら存分に相談に乗ってあげよう。
女の子の相談ってやつは、とりあえず共感して相槌を打ってればいいんだよな。


「ピザまん2つください」

ようやく自習が終わって、二人で夜のコンビニに立ち寄る。
みずきの相談に対して気楽な考えでいた俺は、見事にその期待を裏切られた。

「待たせてごめんね。相談って何のこと?」
「はい、実はあたし、文系から理系に理転して東大を目指そうと思ってます」

え。

まじかー。

そう来たか…。

「それマジなの?」
「はい」
「何でそう思ったの?」
「あたし、前に自分のやりたい事が分からない、って言ったじゃないですか?」
「う、うん」
「この前、相田さんに『大学は自分のやりたい事ができるかどうかで選んだ方がいい』って言われて、ずっと自分の本当にしたい事を考えていたんです。わざわざ大学まで行って何の勉強をしたいんだろうって」
「た、確かに言ったね…。」
「それで、あたし理系科目が好きみたいなんです」
「え?理系科目?」
「はい。文系もセンター試験に数学とか理科基礎ってあるじゃないですか?それを勉強してる中で、最初は漠然としていた数式とかが、問題を解くと意味を持つことがわかったりして面白いんです。理科基礎の科目も、身の回りの現象が解き明かされたりして興味がそそられるんです。だから大学に入って、理系の道に進みたいです」

言わんとしている事は大体分かった。

「でもなんで東大なの?」
「東大って、入ってから学部を選べるじゃないですか?最初はまず自分のしたいことをもっと突き詰めていって、それから本当に勉強したいことを選べるのがいいな、って思いまして…」
「リベラルアーツっていうやつね」
「それです。それに最初に塾に来た時、先生にこう言われたんです。『やりたい事が無いならまずは東大を目指せ』って…。その時はあたしなんかには、東大は無理だって思いましたけど、この前の合宿で気づいたんです」
「何に気づいたの?」
「あたしはまだまだやれるんだって。隣で頑張ってた小百合さんや、相田さん、翔太くんを見て、あたしが限界だって思う時に、この人たちは頑張ってる、あたしもまだまだできるかも、って励まされたんです。そして、自分が限界だって思える以上に頑張れました」

この子が​───

この子がそんなことを考えていたなんて、思いもしなかった。

普段は可愛い顔をして何も考えていないように見えて、実は目に見えぬ葛藤がそこにはあったのだ。

当たり前だ。人が人として存在している以上、決して推し量れぬ、目まぐるしい努力や葛藤がそこにあることは当然じゃないか。

俺はまだまだだな…。
それを見抜けぬのだから…。

「みずきちゃん…凄いよ」

それ以上の言葉は出てこなかった。

「凄くなんかないです。凄いのは相田さんを始め、みなさんです。あたしにこんな勇気をくれたんですから。ありがとうございます」
「ど、どういたしまして…」

人に勇気や希望を与える人間が存在する。
自分では至れない境地に達した人間だと思っていた。
気づかない内に、自分がそんな人間の一人になっていた事に少し嬉しくなった。
こんな俺でも、人に勇気を与えることくらいはできるんだな…。
と、思うのは少しおこがましいか。

「それで、それを言うのが相談?」
「いえ、違います。」

え、これ以上に何があるというのか。

俺は慄き、ピザまんを握る手に思わず力が入った。

そしてみずきが語り出す。

「実はこのことをまだ塾の先生たちに言ってないんです。言うのが怖いんです。相田さん、一緒に居てくれませんか?」

ピザまんを持つ手に入れた力を緩める。

なんだ、そんなことか。心配して損したぜい…。ふぅー。

しかし、確かに、人に自分の志望校を話すのは怖い。
それが今の自分の成績とかけ離れているならなおさらだ。

『私は東大志望です。』

それを言うだけで、一体どれほどの勇気がいることか…。
側から見ると日本一勉強ができます、と宣言しているようなものである。
みずきが怖いと言うのも納得できる。
なんと言ったって俺に相談に来るほどだ。

だが…

「みずきちゃん、それはできないよ」
「え…!なんでですか?」
「それは自分だけで乗り越えるべき壁なんだよ。みずきちゃんもいずれは自立し、自分だけで生き続けなければならないんだ。酷いことを言ってしまうが、こればっかりは自分でなんとか頑張ってほしい」
「……そう……そうですか…」
「それを乗り越えた時、延いては、それを乗り越えられる人だけが、自分の人生を全うすることができるんだ。話を聞く限り、みずきちゃんは一人で頑張れる子だ。ここは逃げずに、一人でやり遂げて欲しい」
「…分かりました」

本当に酷いことを言ってしまった。
みずきはきっと、追い詰められていたんだろう。
考えすぎて勉強どころではなかったのかもしれない。
考えすぎてよく眠れない夜もあったかもしれない。

これは今のみずきに必要な試練なんだ。
人は、生きていく中で、自分の人間性を試される時が何度か来る。
それがみずきにとっては今なんだ。
生きるとはそういうことなんだ。

できれば協力してあげたい。

けれど、こればっかりは​───こればっかりは。


話に夢中で食べかけになっていた、少し潰れた可哀想なピザまんに、俺は目の前のみずきを重ねた。