合宿最終日

「……のぼる……のぼる!」
「……ん……ゆりっぺ?……」
「誰が死んだ世界戦線だよ。天使ちゃんいねーよ」

机に頭を突っ伏して寝ていた自分に気付く。
外はもう明るい。

「やば…。寝ちゃってたのか」
「いや、俺たち結構頑張ってたと思うぜ。久しぶりだよな、こんなに勉強したの」

前の席でみずきが俺と同じような格好をして寝ている。
小百合はいない。

「とりあえず顔洗って来いよ。もうそろそろ朝メシの集合時間だぜ」
「…そうだな」

俺は翔太の忠告を受け入れ、洗面所へ向かった。

顔を洗ったけどまだちょっと眠いな…
コーヒーでも買ってくるか…
ここの施設に来た時、確か外に自販機があったはずだ。

外に出てみると、確かに自販機があった。
ついでに一服するか。宿舎前にある海を眺めながらの一服ってのも乙ってもんだ。

コーヒーを買って海岸線の方へ行った。
朝日が海に反射して心地よい眩しさを感じる。
海の方へよく目を凝らすと、一つの人影が見えた。


‪​───‬小百合だ。


俺は昨日の教訓を生かし、ちゃんと挨拶をすることにした。

「お…おはよう」
「……ええ、おはよう」

以前よりも、小百合の纏う臆病な空気感が薄れた気がした。

「あなた、最後の方寝てたわね」
「…ゔっ…」
「もっと励みなさい。理三志望さん」
「…くっ…それを言ってくれるな。お前だって同じ東大志望じゃないか。ある意味、俺たちは運命共同体だ。俺を傷つけるとはすなわち自分を傷つけることになるぞ。俺は脆いんだ。丁重に扱え。」
「……ふふっ…」

特に面白いことを言ったわけではないが、小百合は屈託無く笑った。
おかしい。コイツは一人で、笑ってはいけない選手権を開催していたはずなのに。
アレか?徹夜でテンションがおかしくなってるやつか?

小百合の思わぬ笑顔に、動揺を見せたくなかった俺は、いつものルーティーンで煙草を一本取り出した。


『シュボッ』


ライターをつけて煙草に火をやる。


「何それ。カッコいいと思ってるの?」
「…まあな」
「……ふふっ……あはは……!まあな。…って……あはは……!」

どうやらツボに入ったらしい。
やはり今日のコイツはどこかおかしい。

でもなぜだろう。
やけに明るく朝日を照り返す小百合の笑顔は、いつもの無表情の彼女よりも、元来のそれであるように見えた。

「小百合さーん!相田さーん!朝ごはんできますよー!」

みずきが寝起きとは思えない元気な声で呼ぶ。

『わかったー!』

とは二人とも言わない。
いや、言えない。
日陰者にとって大きい声を出すことは極めて困難なのである。

俺たちは宿舎の方へ歩いていくことで返事をすることにした。

「やっぱり俺たちって似た者同士なのかもな」
「嫌よ。一緒にしないでちょうだい」
「…お前、俺を何だと思ってるんだ」
「豚よ」
「なんで知ってんの!?」

小百合がまた笑った。

ギネス認定員を呼んでおけば良かった。
恐らくこの短時間の間に小百合がこんなに笑顔を見せたのは、きっと世界で初めてに違いなかった。

「はい!じゃあ最終日も頑張っていきましょー!」

とうとう最終日になった。

昨日の徹夜のおかげで青チャートは無事に全て解き終わった。
残るは化学の重要問題集と体系物理のみだ。
昨日の疲れが多少残ってはいるが、まあ、物理・化学であれば問題ないだろう。
後はひたすら復習だ。

みんなの様子を見てみると、流石に慣れない環境での3日間とあって、疲れが見える。ペンを動かす速度が初日より遅かった。


「はい!じゃあ今日はここまでです!みんなよく頑張ったね。3日間お疲れ様でした。」

なんとか重問、体系物理をやり終えることができた。
満足だ。

『ふう〜』

というため息がそこかしこで聞こえてくる。

「じゃあ今からみんなで宿舎前の浜辺に集合ねー」

合宿のしおりに、最終日の1時間だけ空白の時間があったことを思い出す。
何をするのだろう。

「のぼる、お疲れさん」

浜辺に向かう途中、翔太が話しかけてきた。

「お前もな。流石に疲れたわ」
「俺も疲れた。帰ってゆっくり寝てえわ」

疲れたと言いつつ、彼はまだまだ元気そうな微笑みを見せた。
これが若さっていうやつか…。

浪人生全員が、夕日が眩しく照る浜辺に集まったところで、よっちゃん先生がこう言った。

「じゃあ今から『鬼ごっこ』をします!」

『えっ!』

みんなが戸惑いの表情を見せる。

「合宿最終日に鬼ごっこをするのはマウンテンの伝統なのよー」

戸惑うみんなに、よっちゃん先生が楽しげにそう説明する。

はい、タッチ。
そう言ってよっちゃん先生が俺に触れる。

いきなりの事で動転するその空間が次第に動き出す。

「あいつに触られると豚が移るわよ」

小百合がそうみずきに囁くのが聞こえる。
おい、やめろ。
純粋な少女に余計なことを吹き込むな。

「キャー!」
みずきが元気よく楽しそうにその場から逃げ出す。
それを皮切りに、みんなが一目散に俺だけを残して去っていった。


鬼ごっこを始めてすでに1時間が経過しようとしていた。

「はい!じゃあここまでにしましょう!楽しかったねー。一人笑えないくらい疲れてる人いるけど…あはは」

「はあ、はあ、はあ…」

老骨に鞭打って懸命に走ったが、運動をロクにしてない俺には拷問だった。

「みんな勉強で疲れていたと思うけど、元気に走り回ってたね。あなたたちが限界だと思えることはたかが知れてるの。人間の可能性に限界は無いのよ。これからも自分の限界に挑戦しましょー!」

最終日らしく、よっちゃん先生がみんなのやる気を奮い立たせる言葉で、この合宿に幕を下ろした。

確かに疲れることには疲れたが、まだまだ俺はやれたんだ、と思えば悪くはない疲れだったな。

帰りのバスの中で、先生から、合宿初日に紙に書いた目標を見て、各々この合宿を反省しておくように、という指示があった。

俺はかわいい萌えキャラが描かれているクリアファイルの中から、大事に入れていたはずなのにクシャクシャになった、一枚の紙を取り出した。

勉強の目標はひとまず達成できたな。
ここで重要なことに気付く。

この3日間で得たものは───‬戦友。
そう、戦友と呼べる仲間を得ることができたことが何よりの収穫だった。
それが誰かはあえて明言しないが。

そして常に挑戦者であること。
最強の自分に挑み続けること。
それを体現できる実感が湧いたことが、この合宿で学べたことだった。

人生における大事になることとは、ひょっとしてちょっと脇道に逸れたところで見つけるものなのかもしれない。

勉強と運動に疲れたみんなが寝静まり、バスのエンジン音だけが響く中、俺は一人だけ単語帳開いて黙読に勤しむのであった。